家に落ちているWiFiドングルをMonitorモードにして飛びかうIEEE802.11フレームを覗いてみる
なぜそれをするのか
仕事ではしょっちゅうWiFiをMonitorモードでパケットとって、WiFiの暗号化強度の調査やCrack可否の可能性を報告したりするのだが、以下の理由でちょろっとメモしておく。
- MonitorモードになってくれるWiFiドングルばかりではない
- Ubuntuで余計なことせずにすんなり認識してくれるのが良い --(別に、WiFiの無線チップの型番とVID:PIDが分かれば普通に動かせるが、そんな一手間をかけることがクソめんどい)
- そういえば家に転がっているドングルってMonitorモードになるのかしら?
- ついでにコマンドいつも忘れるからメモしておこう
何をするのか
単にWiFiドングルをUbuntuにぶっさして、モニターモードにしてWiresharkでIEEE802.11フレームを見るというだけの話し。
どうするのか
挿す
うちに転がっていたのは以下。
- PLANEX
- VID:PID=2019:ab31
- GW-450D
- 11ac/n/a/g/b 433Mbps (え、ac使えるしこれ良い、仕事で使える)
挿しこんだ先は以下。
認識しているか見る
lsusb
するとか、dmesg | grep usb
する。
root@ubuntu:~# lsusb Bus 004 Device 001: ID 1d6b:0003 Linux Foundation 3.0 root hub Bus 003 Device 006: ID 0e0f:0002 VMware, Inc. Virtual USB Hub Bus 003 Device 004: ID 0e0f:0002 VMware, Inc. Virtual USB Hub Bus 003 Device 020: ID 2019:ab31 PLANEX Bus 003 Device 003: ID 0e0f:0002 VMware, Inc. Virtual USB Hub Bus 003 Device 005: ID 0e0f:0003 VMware, Inc. Virtual Mouse Bus 003 Device 002: ID 0e0f:0002 VMware, Inc. Virtual USB Hub Bus 003 Device 001: ID 1d6b:0002 Linux Foundation 2.0 root hub Bus 001 Device 001: ID 1d6b:0002 Linux Foundation 2.0 root hub Bus 002 Device 002: ID 0e0f:0002 VMware, Inc. Virtual USB Hub Bus 002 Device 001: ID 1d6b:0001 Linux Foundation 1.1 root hub
root@ubuntu:~# dmesg | grep usb | tail -n20 [17209.410227] usb 3-2.1: Manufacturer: Planex [17209.410228] usb 3-2.1: SerialNumber: 1.0 [17209.738459] usb 3-2.1: reset high-speed USB device number 18 using xhci_hcd [17212.962750] usbcore: registered new interface driver mt76x0u [17233.536497] usb 3-2.1: USB disconnect, device number 18 [17267.412914] usb 3-2.1: new high-speed USB device number 19 using xhci_hcd [17267.461997] usb 3-2.1: New USB device found, idVendor=2019, idProduct=ab31, bcdDevice= 1.00 [17267.462004] usb 3-2.1: New USB device strings: Mfr=1, Product=2, SerialNumber=3 [17267.462007] usb 3-2.1: Product: GW-450D [17267.462009] usb 3-2.1: Manufacturer: Planex [17267.462012] usb 3-2.1: SerialNumber: 1.0 [17267.761299] usb 3-2.1: reset high-speed USB device number 19 using xhci_hcd [17413.322695] usb 3-2.1: USB disconnect, device number 19 [17887.080169] usb 3-2.1: new high-speed USB device number 20 using xhci_hcd [17887.120467] usb 3-2.1: New USB device found, idVendor=2019, idProduct=ab31, bcdDevice= 1.00 [17887.120469] usb 3-2.1: New USB device strings: Mfr=1, Product=2, SerialNumber=3 [17887.120470] usb 3-2.1: Product: GW-450D [17887.120471] usb 3-2.1: Manufacturer: Planex [17887.120472] usb 3-2.1: SerialNumber: 1.0 [17887.400854] usb 3-2.1: reset high-speed USB device number 20 using xhci_hcd
Monitorモードにする
素晴らしい。挿すだけで認識される。
root@ubuntu:~# ifconfig ・・・ wlxcce1d5197ee7: flags=4099<UP,BROADCAST,MULTICAST> mtu 1500 ether cc:e1:d5:19:7e:e7 txqueuelen 1000 (イーサネット) RX packets 0 bytes 0 (0.0 B) RX errors 0 dropped 0 overruns 0 frame 0 TX packets 0 bytes 0 (0.0 B) TX errors 0 dropped 0 overruns 0 carrier 0 collisions 0
IFを停止して、Monitorモードに変更してから、再度有効化する。
root@ubuntu:~# ifconfig wlx0022cfe64854 down
Monitorモードに変更する。
root@ubuntu:~# iwconfig wlx0022cfe64854 mode monitor root@ubuntu:~# iwconfig ens33 no wireless extensions. lo no wireless extensions. wlx0022cfe64854 IEEE 802.11 Mode:Monitor Tx-Power=7 dBm Retry short limit:7 RTS thr:off Fragment thr:off Power Management:off
有効化する。
root@ubuntu:~# ifconfig wlx0022cfe64854 up root@ubuntu:~# ifconfig ・・・ wlx0022cfe64854: flags=4099<UP,BROADCAST,MULTICAST> mtu 1500 unspec 00-22-CF-E6-48-54-30-3A-00-00-00-00-00-00-00-00 txqueuelen 1000 (不明なネット) RX packets 168 bytes 21521 (21.5 KB) RX errors 0 dropped 168 overruns 0 frame 0 TX packets 0 bytes 0 (0.0 B) TX errors 0 dropped 0 overruns 0 carrier 0 collisions 0
IEEE802.11フレームを見る
Wiresharkを起動して、「表示」>「無線ツールバー」として、 MonitorモードになっているIFを選択する。
IEEE802.11フレームが見えるので、WPA2の鍵交換の流れなどがモニタリングできるようになる。 通信しているチャネルが何なのかは別に特定する。
その他
Monitorモードにできるかどうかは無線用のプロセッサ次第。Atherosや、Realtekというキーワードで調べれば実績あるものがひっかる。
今回のPlanexではMedia Tek(MT)のmt7650というやつだった。
IntelのWiFiもMonitorモードに遷移できたりするが、今回は割愛。
おしまい。
2012年スペイン〜モロッコ旅行
会社の有給強制消化制度で、3/24(土)〜4/1(日)の9日間でスペインとモロッコをブラついてきたので、メモっておく。後で写真も足します。
■3/23
そもそも忙しくて逃げ出せるか分からなかったので、前日まで飛行機の予約を躊躇してたけど、行けそうだったので早朝に飛行機を予約。
とりあえず以下のチケットだけゲット。
成田〜イスタンブール@トルコ〜バルセロナ@スペイン
カサブランカ@モロッコ〜イスタンブール〜関空〜羽田
■3/24@日本
荷物を詰めて、地球の歩き方を買った。
13:00 出国。
■3/24@イスタンブール
1時間ぐらいある乗り換えの合間に、初日のバルセロナの宿を予約。
■3/24@バルセロナ
深夜空港に到着して、タクシーで治安の悪いらしい旧市街地の宿に移動。
宿でバルサの試合の予約できないかなー、って検索してたら今日の結果速報が。。。一日早く到着しないとダメだったのね。
■3/25@バルセロナ
カタルーニャ地方では、闘牛が動物愛護の観点から禁止されたとのこと。
闘牛見れず。
ガウディ巡り。
などをしておしまい。
丁度バルセロナマラソンが開催されてて、沿道の応援を楽しみながら歩けた。
■3/26@バルセロナ
今日はまずは、今夜のマドリッドの宿を決めるとこからスタート。
さらに翌日にマドリッドからモロッコのマラケシュへのフライトを予約。
このフライト、ヨーロッパでぶいぶい言わせてるライアンエアーという時価総額エアライン5本の指に入るLLCで予約したんだけど、、、後で文句は書く。
そのあとは、バルセロナのApple StoreへGO!ヨーロッパでしか売ってないグッズをゲットする。最初店頭に並んでなくて、「ないよ!」って最初の店員に言われたけど、もっと気が良さそうな店員に探してもらったら見つかった。スペイン人も結構適当だな。
そのあとはサグラダファミリアの内部に入る。ここには何時間でもいれるね。退屈しない。
一応サグラダファミリアは2020年ごろには完成するスケジュールらしい。
夕方、バルセロナのメインステーションから、新幹線アバンテにのってマドリッドへGO。
■3/26@マドリッド
宿のおっさんがとても気のいい人で気分良い。
スペインの晩飯がとても遅いおかげで、日が変わっても晩飯にありつけた。
カタツムリ(エスカルゴじゃない)を大量に食して少々しんどくなって寝る。
■3/27@トレド
朝早起きして始発のアバンテでマドリッドから南にあるトレドへ向かう。
トレドはイスラエル旧市街地のように、街全体が世界遺産になってる。
アバンテのチケットは当然現地で買う訳だけど、予約デスクのおっさんが3分後にでる列車にはこの汚らしい日本人は間に合わないと思ったのか、1時間後を予約してやがった。
「俺はこの今すぐ出る列車にのりたいの!」とだだこねて改札とおしてもらった。
トレドはヨーロッパの石造りの迷路ってイメージ。とても美しい街。
■3/27@マドリッド
トレドから昼過ぎにはとんぼ返りして来て、マドリッドを少しだけ巡る。
マドリッドで良く乗り換えに使っていた、アトーチャ駅は2004スペイン列車爆破事件の中心地だったそうな。主犯として禁固4万年(スペインには死刑制度がない)を言い渡されたのはモロッコ人のイスラム教徒。ヨーロッパでもこういうことは起きてるんだね。
でも、そんな感傷にひたってる暇もないので、王宮へ。
ほんとはソフィア美術館に行って、ピカソのゲルニカの本物見たかったんだけど、、、休館日だった。
王宮結構良かったよ。写真撮影禁止だったのが残念。
夕方、マドリッド郊外の空港からマラケシュへ。
とここで使ったライアンエアー、Eチケ印刷しないと60ユーロも罰金だよとかぬかしてきやがった。そもそも出発時間すぎてるのにカウンター並びまくりだし、職員はガム噛みながら笑いながら焦りもせずにやってるし、日本人には合わないかも。
ほんとはiPhoneに保存してあったEチケを、gmailに転送して、空港のインターネットKIOSKで印刷できる算段だったのだけど、Softbankが一定額到達時の回線停止の影響でうんともすんとも言わず、WiFiも無く、撃沈した。
■3/27@マラケシュ
空港で有料WiFi捕まえて本日の宿を探す。
貨幣価値の切り替えが脳内でできてなかったせいで、モロッコでは中級以上のエロいホテルを予約してしまった。
しかし場所が分からない。全く分からない。
モロッコのスークは世界一迷子になりやすいことで有名だけど、まさにそんな感じ。
現地のにーちゃんに場所聞いて連れて行ってもらう。
そして、案の定「日本人、ペンよこせ」って言われたから、それを予期して10本ぐらいもってきてたペンを1本あげた。ペンは本当に役に立つな。
非常に活気がある。そして観光客向けにボッタクリが至る所で行われている。
でもモロッコ人可愛いのが「聞いてた現地価格と違いすぎるんだけど?勘弁勘弁」って言えば大抵その値段で出してくれるところ。
そんなことにいちいち腹を立てては気疲れするので、ほどほどに。
■3/28@マラケシュ〜メルズーガ
早朝、宿で聞いたバス会社「Supratours」(モロッコ鉄道ONCF)のターミナルへ移動し、メルズーガ行きのバスチケットを買う。よかった満員じゃなかった。
インターネット上の情報と比べて150MD(モロッコディルハム。1MD=10円)が200MDに値上がりしてた。
バスに乗って12時間ほど揺られ、アトラス山脈を超えて、サハラ砂漠の端っこにある街メルズーガへ。このバスで会った日本人の女の子2人組は世界一周中らしい。ちょっwwwすごくかわいい。
なかなか細く入り組んだ崖道を、大型バスが高速でとばしながら攻める。怖い。
ボリビアのデスロードはホント死ぬ覚悟でバスに乗るらしいので、それよりはマシかもしれないけど。
夜サハラ砂漠に到着。
大雨。
砂漠って雨ふるんだね。
■3/29@サハラ砂漠
大雨だったので、前日夜からの砂漠ステイをやめて、早朝日の出にかけることにした。
よし、雨やんだ。
4時過ぎにラクダに揺られてサハラ砂漠へGO。
ラクダは全然楽じゃなく、ケツが痛くなる。
日の出は雲が少し残っているせいでいまいちだったけれど、雨が降って湿った砂漠が日の出とともにサーっと乾いて色が変わって行く不思議な光景を見ることができたので良しとする。
砂丘は文字通り丘なのかな、と思ってたけど、実際は山だった。サハラ砂漠すげーよ。
ここでも別の日本人が世界一周してて、なかでもチャリンコで世界一周してるデボさんは刺激的だった。
http://ameblo.jp/yoshikazudebori/
ちなみに、サハラ砂漠の端っこの街にもADSL + WiFiの波は来ていて、持って来た会社PCで、本番システムの障害対応ができた。社畜だ。
■3/30@メルズーガ〜メクネス
夜、デボさんと別れて再び12時間のバス移動。
朝4時、メクネス駅到着。始発でモロッコの首都ラバトへ移動。
WiFiが拾えなかったので本日の宿は手当たり次第アタック。
国会の近くにある安宿をゲットして、街をぶらつく。
歩いてたらいきなり「日本人ですか?」ってモロッコ人に声かけられて、「まじ俺東京にすみたいっす、うらやましいっす」って言われ、これも何かの縁かと思いTwitterアカウント教えてあげといた。
市場でかったご飯やスイーツを食べながら町中をぶらぶらするも、見たかったところ軒並み閉館/閉鎖で不完全燃焼。どうやら王様がモスクに礼拝に行くかららしい。迷惑な話、とはさすがに言えない。
首都だけあって、活気はある。
イスラム教との政教分離も結構うまく行っているイメージがあり、女性も社会進出してると思う。
でも、モロッコ行く直前に、痛々しいニュースもありまだまだ課題山積って感じなのだろうか。
「CNN.co.jp:モロッコでレイプ被害者の少女自殺、判事命令で加害者と結婚」 http://t.co/zclGYV4
夜、ラバトで働く小学校時代の友人のゆうゆと晩ご飯を食べて超幸せ。
これがある意味最終目的だったような気もする。
■3/31@ラバト〜カサブランカ
早朝にラバトを出て、首都じゃないけど最大の商業のまちカサブランカへ移動。
http://ja.wikipedia.org/wiki/カサブランカ
ハッサン2世モスクだけは外せないと思い、ギリギリの行程ながらなんとか見て回る。
空港ではカウンターのおねーさんと、
「あなた、パスポートと顔違うわよ?」
「それ7年前だしね。しかもヒゲのびてるからかな?どっちが好き?」
「今のほうがクールよ。」
「ほんと?ありがとう。」
みたいな軽い感じの会話をして帰国の途につくなど。
■4/1@カサブランカ〜イスタンブール〜関空〜羽田
夜に日本に到着して帰宅。
数時間寝る。
出社!結構タフな方だよね。
今回も出会いあり、知見あり、反省あり、思いでありな感じで、しかも何事も無く無事帰って来れて本当に幸せだなぁ。
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お会計
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飛行機 15万円
生活費 5万円
以上。普通にいったら40万ぐらいはかかるんじゃないだろか。
ヨルダン、イスラエル、パレスチナの旅メモ
2011/12/30〜2012/01/09までヨルダン、イスラエル、パレスチナを回ってきたメモを某所から転記。
■12/30
成田から昼の便でトルコ イスタンブール経由、ヨルダン アンマンに12/31深夜着。いきなりだがこの空港は湾岸戦争のときに毎日新聞の記者が持ち込んだ不発弾が爆発して死人が出る事件が起きてたりする。日本人の印象悪そう。
イスタンブールでは、最初の目的地としてヨルダンのペトラ遺跡に行くことに決めていたので、イスタンブールの空港で、頼みの綱のiPhone使って取り敢えずホテルを予約、ヨルダンのバス会社に早朝発のバスの予約確認メールを送る。
アンマンに到着後メール見たら「OK、座席空いてる」と連絡があったので空港のベンチで朝まで野宿。
空港からタクシーでバス乗り場まで行ってもらい、ペトラ遺跡の街ワディムーサには昼到着。
ペトラ遺跡は入場料が高くて困る。
でも、インディージョーンズ最後の聖戦の舞台でもあるエルハズネとか最高。
ほとほと疲れ果てて宿に帰る。年越しの時にロビーに行って、外国人とハッピーニューイヤーするはずだったんだけど疲れ過ぎてて仮眠、起きたら2012年とっくに来てる状態あるある。
■01/01
明けましておめでとうを宿の人に告げてペトラ遺跡二日め。
昨日回れなかった犠牲祭壇を見るなど。これまた高所にあってなかなかどうして大変。
夕方のバスでアンマンに戻る。バスの中では日本人のキクチさんと隣になり、その後もう一人のアクツ君(アラビア語堪能なアラブ女性好きの大学生)を加えてメシに行くなど。
アクツ君の宿はマンスールホテル、一泊400円。イラクで拉致され殺された香田氏が最後に泊ったアンマンのホテルの従業員が彼の名前を忘れないようにとコーダホテルという通称を冠したホテルだった。彼はバクダッド行きのバスチケット取得に最後まで反対していたそうな。
はっきり言ってそんな話はニュースを介してしか無縁だと思っていたけど、少し考えさせられるものもある。
なんてこと言いながら宿に泊まってる他の日本人の女の子を誘ってアンマンのカフェで合コン、というか旅情報共有会をして寝た。
■01/02
朝、宿のフロントに「イスラエルの国境(キングフセイン橋)に行きたいんだけど。」という話をしたら、バスターミナルの場所を教えてくれたのでそこまでタクシーで行く。
ターミナルには沢山の現地人が使う乗合バスが止まっており、目的のバスを見つけて乗り込む。発車時刻は決まっていない。暫くして乗客が集まったら出発した。
二時間弱ほどで国境に到着。ヨルダンとイスラエルの国境は3つほどしかない。キングフセイン橋はその中の一つ。
国境は中東戦争の名残か緩衝地帯になっており、出国手続きをしてバスに乗り込みイスラエル側の国境へ向かう。
イスラエルに入出国する際、パスポートにスタンプが押されると、イスラエルと緊張関係にある多くの国(シリア、レバノン、サウジ、イラン、パキスタンなど?)に入国が拒否されるようになるらしい。このため、ノースタンプという技があるのだけれど、ヨルダン側の出国スタンプがあると当然イスラエル入国が自明になる。そこで、ヨルダン出国時点でノースタンプにしてもらわなければならない。
キングフセイン橋には日本の国旗が書いてあり、どうやらODAかなにかの金で建設されたもよう。
20分ほどバスで走るとイスラエルのイミグレに到着。セキュリティチェックを受け、有名?な尋問タイム。
僕は三十分ほどかかった。主な聞かれたことは以下の通り。
・目的と初めての訪問か
・ヨルダンでの旅程
・マレーシア、トルコ、UAE、エジプト(イスラム圏)になぜ誰ととのぐらいの間行ったのか
・イスラエルの旅程
・出国地
・経由地
・宿
・なぜノースタンプなのか
最後のが曲者で、
僕「旅行したいじゃん。」
彼「は?お前そんなん理由になると思ってんのふざけてんの?」
僕「え、海外旅行まだするつもりで、入国できなくなくなる国あるんでしょ?」
彼「それも理由にならない。今回の行程には問題ないだろ!理由を明確に示せ!説明出来ない理由でもあるのか!」
僕「さささ、サウジアラビアに仕事と旅行で行く可能性があるからです。(適当)」
彼「サウジ入国に支障がでるとか、そもそも誰がお前にそんなこと吹き込んだんだ!」
僕「え、、、ガイドに書いてあったけど。」
彼「ガイドって誰だ!ヨルダンでなんか吹き込まれたか!答えろ!」
僕「ががが、ガイドブックですよ。」
彼「OK, Enjoy!」
抜けたところに日本人が!同行者を待ってるらしく、他の人は、イランとかパキスタン、シリアに入国してたので尋問されて結構長い間待たされてた。大変だこりゃ。
揃った後に乗り合いタクシーでエルサレムへ。移動中、兵士がパスポートチェックなどに車に乗り込んでくるなど。
ここでの出会いは非常に恵まれたものになった。
かつみさん、ひかるさん夫婦、かおりさん、さくらちゃん親子、しゅうへい君、カズさん、さとしくん。
エルサレムの旧市街地は、現地の生活の喧噪の真っ只中にあった。
宿は決めてなかったんだけど、ダマスカス門のすぐそばにあるニューパームホテルにした。8人で一部屋シェアして一泊1000円。
その日はあいにくの雨だったけれども、嘆きの壁、聖噴墓教会(ゴルゴダの丘)など旧市街地の入り組んだ道をなんとなく歩いてメシ食って寝た。
■01/03
朝、エルサレム旧市街地からバスでパレスチナ自治区のベツレヘムへ。
キリストの生まれた馬小屋跡地?の教会やヘロデオン遺跡などを見て回った。
物質にはかなり溢れている感じ。とても賑やかで活気のある印象を受けた。こだわらなければ生活に必要なものは何でも手に入る。
穏健派のファタハが統治するヨルダン川西岸地区のパレスチナ自治区はかなり安定してる印象。
とはいえここはパレスチナ自治区。国連の車などがよく通る。監視団かな?
帰りのバスではチェックポイントでパレスチナ人は一度降ろされ、イスラエルが勝手に発行したパレスチニアンIDのチェックをされる。イスラエルは何の権利があってここまでするのか理解できなかった。
エルサレムに住みながらベツレヘムの大学に通うアラブ人の女の子は「毎日のことだから慣れた」と言っていた。でもそれでいいはずはない、と思っているのかどうか到底旅行者に推し量る術はない。
■01/04
この日はひたすらエルサレム旧市街地を回る。唯一敷地内に入ることができる入り口から朝一の岩のドームを間近にみれた。岩のドームの中心には地球の中心らしい?基礎石があり、それをムスリムがモスクで覆ってしまった。ユダヤ教徒の聖地でもあるのに行きたくてもいけない、それを分かつ壁が嘆きの壁とのこと。その後は、一通りの見所を周り、外壁を歩き、夕焼けを味わった。
晩飯でひともんちゃく。宿に長くいるフランス系移民のアメリカ人の女性がどうしても日本食を作って食事をシェアして欲しい、と言ってくる。
疲れ果てていたのでみんなは断ろうとしたのだけど、彼女大荒れ大騒ぎ、海外の自己主張の強さを感じつつも、交渉の引き際を知らないひとは海外にもいるのだなと思い安心もする。
取り敢えず僕は翌日めんどくないよう、結局別れてつくることになった彼女側へ。
修平くんには、「裏切ったなーw」とか言われ内心傷つきつつ、明日も同じこと言われないためだと思って彼女の命令に従いメシを作る。
結局、宿のコンロの火力が不安定でほとんど何も出来ず。まぁ、そんな晩飯も良い思い出か。
後で聞いたことだけど彼女はかなり料理が上手らしく、成功体験があったのだろう。でも、断られた時の荒れ方はCrazyだって、韓国人とイタリア人とオランダ人が言ってた。
夜、宿で知り合った韓国のミンくんから死海への行き方などを聞いて寝る。
■01/05
今日は朝から死海とマサダへ。
方向が目的地が一緒だったので宿で知り合ったアメリカ在住韓国のソンミとバスで移動。
死海は本当に沈めなかった。勝手に浮く。これ持ってけ!というかつみさんのアドバイスで新聞を持ってたので「死海に浮かびながら新聞を読む図」をパシャりと。
非常にしょっぱく、ヌルヌルし、乾くとすぐに塩をふく海。
波打ち際は鋭利で大きな塩の結晶で覆われていて、歩くと痛いし擦り傷だらけになる。
サンダル必須。
さらに移動し山の上にあるマサダ遺跡へも。ローマ兵に攻められたヘブライ民族の集団自決の地で、イスラエル軍の入隊式もそこでやるとのこと。
No more, Masada.
夜、明日死海あたりへ行くらしいミンくんに情報共有返しをするなど。
■01/06
部屋から半分ほどの人たちが旅立って行って少し寂しい朝。
今日は一人で回りたかったので、パレスチナ自治政府の首都ラマッラーへ向かう。
街のマーケットは賑わっていて、とてもいい感じ。ところがどっこい、見たいアラファト議長の墓(PLO議長府)がどうにも伝わらない。僕と一緒で片言の英語なんだろうな。生活上必要な人もいるけど基本敵サイドのコトバだし。Arafat's Tomb!とか言っても意味なし。でも親身に聞いてくれる感じはとても好感触。
最後は「そっちの方いくからついて来い」と案内までしてくれてありがたい。
アラファトの墓は議長府の中にさりげなくある。ここがイスラエルから空爆されてたとこか、と立て直したのだろう綺麗な建物がいくつか。周辺にはPLOを国家として認める国の国旗がたなびく。
外ではパレスチナ兵と談笑。カラシニコフを自慢されたり、カメラを自慢したり。しまいにゃジープが四台ぐらい止まって兵士にいちいちトーキョー、ヤパニーとか紹介してやや面倒。
昼はかの有名なパクリカフェ「スターズ&バックス」で。ケバブ注文しただけなのにサラダをおまけしてもらうなど。
帰りのバスではチェックポイントでいったん降ろされた。入植地を広げるために半ば強行で作られたイスラエルとPLOを隔てるための分離壁は、もう数百キロあるらしい。ベルリンで壁を見た時、こういう時代はもう終わったのかー、とか思ってたけど、ここでは現在進行形で建設されてる。
壁には思い思いの絵が書いてあって、壁に穴が空いてる絵や、I'm not terrorist.みたいなのもあった。
で、そういった写真を撮ったのだけど、チェックポイント通過時に全部消された。カメラで中を撮影したから目を付けられたらしい。無念すぎる。もう一度行く理由になるぐらい残念。
バックアップのメモリカードに差し替えるぐらいのしたたかさを持つようにしよう。。。
昼過ぎには宿に戻り、バスターミナルからテルアビブへ!とその前に嘆きの壁にもう一度行こう、と思ってバックパック背負っていっていたら、土曜の午後は宗教的な理由でほとんどの公共交通機関が止まってる。
間に合わないのでバスターミナルにはタクシーでボラれつつ到着。
テルアビブはエルサレムからバスで一時間強で着く近場。
国際法上のイスラエルの首都で、各国の大使館もこの街にある。
決めた宿は、ロスチャイルド通りの隣の道のダウンタウン。なんかダン・ブラウンの小説の匂いがする。
12人部屋のベッドを一つ借りる。チェックイン遅いから罰金とかざけんな!
夜のテルアビブでムフフなとこに繰り出したかったのだけど、疲れたから仮眠したら朝になってた。
■01/07
日曜日。何もやってない。見所は全部閉まってる。電車もバスも動いていない。そういう時は自転車を借りて街中走り回るのが自分のスタイル。安いし。
地中海に面したテルアビブはさながらリゾート地。ビルもでかい。人ものんびりしている。この街には想像していたのと違うイスラエルがある。
ユダヤ教徒の人が少ないから?確かにあの奇抜な格好のユダヤ教徒はいない。
ラビン首相が暗殺されたラビン広場や、日本大使館、海岸線、初代大統領ベングリオンの家などをチャリンコでぶらついて、ベングリオン国際空港から帰国へ。
ヨルダンの空港に続いて、この空港でも旧日本赤軍が銃乱射事件を起こしてたりして、日本人の印象悪そう。
ちなみイスラエルでは三時間前に空港に来いと指導してる。実際、入国のと同じぐらいいろいろ聞かれた。特に荷物とか会った人とか、何か渡されなかったかとかが中心。ノースタンプについては特段文句は言われなかった。
その後はバックの中も外も専用の布で拭いてイオンを吸着させて分析器にかける。
爆発物の成分を分析するそうな。
全部で30分ぐらいかかった。
あとは、トルコ経由で帰国。
いつもの日常へ。
今回、世界の宗教戦争の中心地に行った訳だけれど、やっぱり信仰が薄い僕には良くわからないことだらけだ。
ただ、彼らにとっては信仰は人生そのものという意味合いも強い、と強く実感した。
おしまい。
2011年リフレ旅行記最終回〜グッバイ、ドイツ
書くのが面倒になってきたのであっさりと。
3/17 早朝に ロバニエミ空港発、ヘルシンキ乗り換え、フランクフルト国際空港着。
空港からは電車でフランクフルト中央駅へ。今日の宿は普通のマンションの一室。。ライン川の支流マイン側沿いにある伝統的な欧州建築で、非常に雰囲気がよろしい。鍵を渡されて「あとはご自由に。帰るとき鍵ここに投げ入れといて」とだけ。
荷物を軽装に変更して、再びフランクフルト中央駅へ。
予約しておいたドイツ新幹線ICEを使って、ケルンへ移動。
新幹線はトンネルが多く、あまりロマンチック街道らしい風景見て取れず。いつか、自転車で走破したいものだ。
新幹線の窓から、世界遺産のケルン大聖堂が見える。
修学旅行で奈良の東大寺のでかさに圧倒された時に似た感覚を覚える。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&gl=jp&brcurrent=3%2C0x0%3A0x0%2C0&ie=UTF8&ll=50.941799%2C6.958841&spn=0.003738%2C0.006856&t=h&z=17&source=embed
大聖堂の正面右側の塔は、観光客向けに公開されているので、登ってみた。
非常に狭い螺旋階段の錯覚か、登った感が得られる。
本当にこれだけ繊細&大規模な構造物が戦火を逃れ残っていることに驚愕する。
とはいえ、これだけ市街地のど真ん中にあると、世界遺産取り消しの議論が起こるのも仕方のないことのような気もする。
周辺の国立博物館などを巡った後、レストラン探しがてらライン川のほとりを散歩。日の丸が半旗になっているレストランを偶然発券し、吸い込まれるように晩飯。
現地のビール結構飲んだんだけど、非常に安くてお腹いっぱいになり当然美味しい。お勧めしたい店。
http://bit.ly/iTWWpz
酔っていたのだろう帰りのICEはすぐに眠りに入り、次は深夜のフランクフルト中央駅で車掌に起こされた。
http://yfrog.com/h091857099j
フランクフルト中央駅前の静けさと、一本裏通りの風俗外の賑やかさのコントラストが猥雑でいい感じ。
翌日のんびり起きてフランクフルト市内をぶらぶらと散歩。
http://4sq.com/e6H63B
http://4sq.com/fydcnq
4squareでCheck-inしまくっていたら、世界一に認定された。
http://yfrog.com/h8t20icj
いよいよ帰るためにカフェによるとカフェでも食い入るように皆BBCを見ている。
フランクフルトの管制塔から、お気をつけて的なことを言われるなどもする。
@Airport_FRA: Have a good flight! Wish you and your family and friends all the best !
この旅でこの台詞たくさん使ったなぁ。
Thx! We are holding up and staying hopeful.
帰国したら、震災で経済活動を止めないための活動に従事することとしよう。
OK、フランクフルトソーセージは買った。グッバイ、ドイツ。
2011年リフレ旅行記その4〜サンタクロースの町
この辺から猛烈な勢いで写真が減る。
なぜならば、せっかく購入した16GBのメモリカードを家に忘れて、
元々使っていた8GBのカードを持って来ていたから。
空き容量はポーランドとベルリンでほとんど使い果たした。
3/15 10:10 Berlin (TXL) to Helsinki (HEL)
by ルフトハンザと見せかけたBlue1
ルフトハンザが発券していたので当然ルフトのCheck-inカウンターへ並ぶも、
「ルフトではヘルシンキ行きなんて飛んでません」
なんて言われて、大急ぎで別ターミナルへ。
Blue1という小さな航空会社が実際はオペレーションしてるからなんだってさ。
そんなこと知るわけないから。
ヘルシンキ・ヴァンター空港には例のごとくムーミンショップがあって、かなりの賑わい。
かなりブサイクなスナフキン発見。
他には、KIOSKに名探偵コナンなど日本のマンガのフィンランド語版も売ってたのが印象的。
非常におなかが減ったので昼飯をとる、ものの、1皿のサラダがどう考えても4人前の分量あって食いきれず、鬱な気持ちになってしまった。
16:15 Helsinki (HEL) to Rovaniemi (RVN)
by フィンランド航空(世界一ロスバゲ率が低いらしいエアライン)
ロバニエミ空港の到着ロビーで休憩していたら空港閉鎖され、一人寂しくタクシー呼んでホテルへ。
ホテル到着後は、オーロラツアーへ。
天気が良いので確実に見れると思った自分は甘かった。
全くオーロラ出ない。オーロラが出る条件でもある太陽の活動は、雲のあるなしとは無関係。。。
仕方ないので暖をとっていたアイスホテル(氷で作られてる)を散策するなど。
都市部で-9℃ぐらいでした。
翌朝ノープラン。
犬ぞりもトナカイも特に予約してない、というか当日無理。
とりあえずバス停を探して、サンタクロースビレッジへ向かう。
東京=TOKIO
フィンランド政府公認のサンタクロースはこの建物の中に住んでいた。
ちなみに、この国のサンタクロースのTwitterアカウントは下。
http://twitter.com/#!/santa__claus
建物の屋根から出ているロープは、北極圏の境界線を表している。
北極圏とはwikipediaによると「真冬に太陽が昇らず(極夜)真夏に太陽が沈まない(白夜)北緯66度33分39秒地点を連ねた線およびそれ以北の地域を意味する」そうです。
半身は北極圏で、半身はそれ以南、って写真を撮れなかったのが残念だ。
ぜひ訪問した際にやってほしいのは、クリスマスカードのポストへの投函。
左が「すぐに配達」
右が「次にやってくるクリスマスに配達」
右に何を投函したかは秘密として、左にはオーロラのポストカードを何通か投函。
サンタクロースビレッジおしまい。ホテルに戻るも夜まで予定がない。近くのスキー場へ向かい、スキーのガチ練習。季節によるんだろうけれど、雪質はニセコの方が良いかな。
http://www.ounasvaara.fi/
晩ご飯は、評判らしい熊肉とトナカイ肉が食べれるNili Ravintolaへ。ラムが食べられる人なら美味しくいただけるはずです。
夜はバックアップにしていた2回目のオーロラツアー。
そのまま徹夜で出発準備をしてロバニエミからフランクフルト&ケルンへ向かう。
またオーロラ見にロバニエミへ来ればいいか。
2011年リフレ旅行記その3〜丁度1年前みんなで山を登った
昨日のアウシュビッツ訪問であまりに疲れすぎて、夜Krakowの街に出る気力も無く倒れこんだ。
夜はiPadでNHKのサイマルを見た。福島原発で水素爆発があったニュースがポーランドでも流れていた。世界は繋がっている。
3/14 05:00起床
朝ご飯まで3時間ほどあるので、朝日が昇りはじめたKrakowを散歩する。
第2次世界大戦があったにもかかわらずKrakowの街は戦火を逃れ、破壊されずに済んだらしく、中世に設計された町並みが残っており本当に美しい。
10:45 ヨハネ・パウロ2世パリツェ空港(Krakow)からテーゲル国際空港(ベルリン)へAirBerlinで移動。
空港では、ポーランド人のかわいい女の子たちに囲まれてご満悦な僕。
修学旅行か何かだろう。テンション上がり過ぎなのか、よほど黒髪モンゴロイドがこんな所に一人で座ってるのが珍しいのか「あなた英語はなせる?」と積極的にコミュニケーションとってきた。
超可愛くてよかった。
ここ1年で最大のモテ期だった。
到着後最初の問題。本当に全くドイツ語が分からないので、目的地が地図で全然探せない。案内板をひたすら睨めっこして、ホテルの住所と文字列比較。
http://yfrog.com/gyxk1zhj
iPhoneなかったら絶対たどり着けなかった。
途中にはメルセデスの本社ビルもあり、頂点には例のエンブレムが回転しながら光輝いておりました。
http://yfrog.com/h21knzaj
Sandra/StephanにはFacebook&SMSで連絡してあったので、19:30にピックアップしてくれるとのこと。月曜なのに申し訳ない。
ピックアップまで4時間何しよう。今回の旅行ほとんど何も決めてない。
iPad&TripAdvisorでベルリンを調べていたら、レンタサイクルが熱いらしい。近くの雑貨屋で自転車を借りて、走り出す。
チャリンコの経路をGPSで記録しておいた。
ドイツは売春が合法なのだが、丁度チャリンコこいで抜けた道がオネーサマがたが派手な格好で立っておられて驚いたわ。
SONY Centerを抜けて、チャーリーズチェックポイントへ。
博物館もどこもかしこも月曜日やってない。
Sandra曰く「世界中どこの博物館も月曜は休館日だし、5時すぎたら終わるから」
といくことで、チャリンコ最後の目的地「ブランデンブルグ門」
SONY Centerを通ってホテルに戻る。
SONYは完璧に外資系企業だね。
気づいたのだが、全くベルリンの壁が無い。道路に壁の跡がマークされているけれど、壁そのものは無い。残念。
19:30 SndraとStephanと再会。
Stephanはわざわざハンブルグからこのために来てくれた。
ソーセージとフライドポテトをひたすら食べる。
これがドイツのソウルフードなんだと!
んーまい!
その後は、Sandraの車でベルリン郊外へ。
車中で話を聞くに、ベルリンも中心地から少し離れれば貧しく失業者が溢れる場所もある。ソーシャルワーカーでもある彼女は「一見明るくなったように見えるベルリンの陰よ」と。
他にも、第二次世界大戦中は世界最大の空港だったBerlin Tempelhof Airportもまわる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Berlin_Tempelhof_Airport
さらに車を走らせ、ベルリンの壁が残っている場所へ。
これがベルリンの壁。20数年前は、周囲150kmを超えていたのか。
ちなみに、20前後の時、Sandraは東ドイツ、Stephanは西ドイツで生活していたと教えてもらった。軽く言われたけど、重い。
そして、そんな彼らとバーでドイツビールを飲みながら思い出話をし続けた。
酔っぱらっていると大して英語が話せなくても何とかなるものだ。
丁度1年前の3/14、南アフリカ タンザニア Springlandホテルで出会った僕たちは一緒にキリマンジャロを登った。
1年後、ドイツのベルリンでその時の写真を肴にビールを飲むことができている。
僕は、結構幸せだ。
翌日、ベルリンからヘルシンキ経由で、北極圏の町ロバニエミへ向かう。
2011年リフレ旅行記その2〜知らなすぎたアウシュヴィッツ
3/13 朝
08:00 フランクフルトからミュンヘン経由でクラクフ入り。空港で野宿した際、クラクフのホテルに「今日泊れません。明日昼過ぎにクラクフまで迎えに来て、そのままオシフィエンチムまで送ってください」とお願いしてあったので、空港に迎えの車あり。
ちゃんと前日入りできていれば、乗り合いバスで目的地へ向かったりできたのだが、時は金なりということで、追加費用投下。
結局、地震の影響をリカバるのに400EURもしたが、復興費用に比べればカスみたいなもの。
13:30 世界遺産であるアウシュヴィッツ第一強制収容所@オシフィエンチム到着。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=en&ie=UTF8&ll=50.025636%2C19.2032&spn=0.01453%2C0.041671&t=h&z=15&brcurrent=3%2C0x0%3A0x0%2C1&source=embed
クレマトリウム(ガス室)。
アウシュビッツ第一強制収容所を出て、第二強制収容所(ビルケナウ)へ向かう。
車で数分の所にある広大な土地がそれ。「目的をもって作られた工場」という印象。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=en&ie=UTF8&t=h&brcurrent=3%2C0x0%3A0x0%2C1&ll=50.036911%2C19.175134&spn=0.014526%2C0.02532&z=15&source=embed
「シンドラーのリスト」などであまりにも有名な「死の門」(ビルケナウの鉄道引込線)はここにある。
クレマトリウムの残骸と思われるガレキ。終戦間近にSSによって証拠隠滅の為に破壊されたとされている。ビルケナウには大小あわせて6個の改良型クレマトリウムがあったとのこと。
石碑は複数あり、別々の言葉で同じことが書かれている。
"FOR EVER LET THIS PLACE BE A CRY OF DESPAIR AND A WARNING TO HUMANITY, WHERE THE NAZIS MURDERED ABOUT ONE AND A HALFT MILLION MEN, WOMEN, AND CHILDREN, MAINLY JEWS FROM VARIOUS COUNTRIES OF EUROPE."
ホロコーストについては、虐殺された人数や、本当にガス室があったのか、チクロンBの致死性についての疑問など、様々な議論されているよう。
悲劇は時にプロパガンダや潜在意識のせいで尾ひれ背ひれ付くものだと思うけれど、僕はそれを明らかにすることに人生をかけている訳でも無いので沈黙。
とりあえずこの場所へ来ることができて良かった、と付け加えておきます。
翌朝、クラクフの街を散歩して、ベルリンへ移動。
続く。